
metamorworks/iStock
はじめに
本書はイギリスのジャーナリスト、ポール・メイソン(Paul Mason)の著作である『ポストキャピタリズム』(2017年、佐々とも訳、東洋経済新報社。原著はPost Capitalism: A Guide to Our Future、2015年、Penguin)。
本稿で取りあげたのは、前回論じたJ.リフキンの提起した主要な論点を本書が継承し展開しているからであるが、実はメイソンの守備範囲は広く政治・経済、そしてジャーナリストとしての現場体験、要人との対話などが本書全体の土台となっている。だから、本稿はメイソンの一部分を取り扱っている。
情報化 ⇒ 価格ゼロ ⇒ 脱資本主義というリフキンの構図に関係する部分に焦点をあてて検討していこう。
労働価値説
メイソンは『資本論』を深く理解している。そこに示された主要な論理を深く取り出し、それらを武器に現状、つまり資本主義経済、現代政治、各国事情を分析している。そうした成果のひとつが情報化社会への独特な、かなりの説得力を持つ労働価値説への解釈である。
リフキンの後継者
「情報技術は、安定した形の資本主義を新たに創造することはない。情報技術は市場メカニズムを腐食させ、所有権を侵食し、賃金と労働と利潤との間の古い関係を壊している。情報技術が資本主義を消滅させつつあることを裏づける証拠がますます増えているのだ」(P.197)
この引用はメイソンからだが、それを掲げたのはリフキンの主張の核心部分をなぞっているからである。もう一人、援軍が登場する。経済学者として“情報と経済”を取りあげた人、それはかのドラッカーである(『ポスト資本主義』、2007年、上田惇生ほか訳、ダイヤモンド社)。
ドラッカーは情報革命が単なる技術革新とは違って「何かほかの社会」への移行を準備するものと考えていた。
ここで後の論点として注目しておきたいことがある。それは、その「何かほかの社会」の担い手は誰かという問いだ。封建社会は中世の騎士、資本主義では資本家。そしてマルクスによれば、次の社会はプロレタリアートだった(これは歴史が否定した)。となると情報化がいき渡った「次なる社会」では誰が主役なのか?
メイソンはドラッカーのやや意外な答えを紹介している。
「普遍性を持つ、教育のある人間」(P.199)
それは、知識階級と管理階級が融合した新しいタイプの人間だという。
「狭い分野での研究で得られた専門知識を集めて採用し、広く応用できる人である」(P.200)
メイソンによれば、このような新しいタイプは21世紀のはじめについに現れた。それは「Tシャツを着たブルジョアジーのグループ」だ(P.200)。
日本だとTシャツを着たブルジョアジーというと、かのホリエモンを想起する。かのスティーブ・ジョブスもそうだった。
マルクスの想定した未来の請負人はプロレタリアート階級であったが、メイソンが注目しているのは階級ではなく、個人、それもネットワークでつながった個人だ。
情報という商品
資本主義は商品の売買で成立する。売買を実行する人(経済人)から、対象となる商品に目を移そう。これを考えたのはアメリカの経済学者ポール・ローマー(P.Romer)であり、その考えは“コピー・アンド・ペースト”だ。それは無料の再生であり「限界費用ゼロ」なのである(P.206)。
通常の商品は、使用すれば無くなるが情報商品はそうではない。だから両者を区別するのは、希少性と潤沢・豊富性である。ついでに言えば、主流経済学の基礎理論である限界効用説は商品の希少性を前提にしている。ビートルズの「ラブ・ミ・ドゥ」は、それがiTunesに入っていれば、多くの人が何回でも聴くことができ、少しも劣化しないのである。
オープンソース
情報化社会では、限界費用ゼロの他にも変化が生じた。オープンソースの利用によって、生産手段の共有化が可能になった。お金が一人の人間、あるいはグループに集中して資本となり、それが生産手段に投下され、私的所有のもとに管理される、という常識がくつがえった。
販売も市場を通じてではなくなる。これまでは商品は市場に放出され、そこで初めて価格を受け取る。媒介物として貨幣は必需品だったが、もはやそうではなくなる。少なくとも、価値尺度機能しかなくなる。
オープンソースの代表例はウィキペディアだが、なんで無料なのだろう? もし有料だったら年間28億ドルを稼ぐ計算だ。従業員はたったの208人だ。
爆弾発言
では、モノの価値が労働の継続時間で尺度されるという労働価値説はどうなるのだろう。
「仕事のほとんどを機械が行う経済では、人間の労働とはまさに機械を監視し、修理し、設計することになる。機械の中に閉じ込められた知識の本質が「社会的」となるに違いない」(P.233)
引用の前半は、メイソンがマルクスの若き日の作品であるGrundrisse der Kritik der politischen Ökonomie、『経済学批判要綱』(以下、「要綱」)から引いている。
「要綱」※1)は1960年代終わりまで人の目に触れることがなかった。マルクスの死後エンゲルスが長い保管の後、公開してくれたので人類の遺産になった文書だ。これを爆弾発言としてメイソンは注目している。
※1)日本では、1958年になって九州大学の高木幸二郎教授とそのグループが訳し、その後、研究材料として利用されたが、情報化の検討に使われることはなかった。情報化が進展する前に日本のマルクス経済学は崩れてしまったからだろう。
爆弾発言は「要綱」の「機械についての断章」からだが、ここからメイソンは次の二つの考えを引き出す(P.236)。
- ①生産力を牽引するものは知識であり、機械に蓄積された知識は社会的である
- ②知識が主導となる資本主義は、その価格メカニズムを維持できない
この1858年に書かれた断章は、その後に『資本論』の基礎となった労働価値説と対立しているように見える。ところが、そうではないとメイソンは言う。
「マルクスを超えたマルクス」として、この断章を検討したのはイタリアの左派アントニオ・ネグリとパオロ・ヴィルノで、彼らは「機械についての断章」で記述した考えは、「マルクスが他では書かなかったが、実はいつも彼が考えていることの代案のようなものだ」(P.237)と言っている。
要するに、私達の生きている時代の情報資本主義に近いものを、マルクスは機械に蓄積される“一般的知性”という言葉で想像していた。これがメイソンの解釈である。
IoT
リフキンは、情報化が拡大し一般化する過程をインターネット・オブ・シングス(Internet of Things、モノのインターネットと訳している)として説明しているが、メイソンはわかり易く「情報がプラス」されたものとして、スポーツ・シューズ・メーカーのナイキの例で説明している(P.241)。
この会社は新聞広告などの従来型のメディアをやめて、シューズのユーザーにランニングのパフォーマンスを報告してもらう方法を採用した。2006年には1億5000万のデータを集め、これを新製品の製造に生かしている。メイソンが「社会の工場化」と呼んでいる代表例だ。
ドラッカーの引用と解説のあと、マネジメント・コンサルタントとしてリフキンが登場する。
「リフキンの著書は社会の方向性を明るく照らしている。モノが無料の世界は資本主義であるはずがないし、デジタル世界のような物理的な世界にも無料化が普及している」(P.244)
誰がつくる?
生産物が無料になったら利潤はゼロになるから資本主義的企業は成り立たない。では、誰が生産するのか?
その誰は、もう既に世界のあちこちに出現しているのだが、それをピアプロダクションと呼ぶ。ピアツーピア、すなわち市場を介さずインターネットを通じて生産者と消費者が直接つながる。そして相互に立場を交換する。つまり、生産消費者となり協働的な社会を形成する。仕事と余暇の境目があいまいになる。未来はネットワークで結ばれた新しいタイプの人によって構成される。
労働価値説再考
Aという商品があり余る程あったなら、それに価格はつかない。ということは価格の根底にある価値もゼロだ。このことを逆に見ると、価値があるとかないとか、つまりどのくらいの価値だという理論の背後にはA商品が不足している、希少にしか存在しないということが前提にある。メイソンは第6章で労働価値説を再考する。本書を輝かせている章のひとつだ。
リフキンは、価値がゼロだから価値を説明する理論はすべて無効だと、やや短絡に結論する。そうなるのはリフキンが価値を効用に寄せて見ているからだ。彼の価値は俗にいう“値打ち”に近いものでもあろう。日本でリフキンを承継した佐藤典司も同様の傾向にある。
メイソンは違う。労働価値説の中に、この説を否定する要素が含まれている、と主張する。経済システムとしての資本主義を発展・拡大させる要素が、あるステージになると資本主義を否定する要素に転化する。この『資本論』と同じ論理が労働価値説という玉手箱のような狭い枠内でも展開する。価値を説明する論理がやがて無効になる。労働価値説は自己否定を内包している学説なのである。
「労働価値説は、一定の循環プロセスと最終的には長期的崩壊につながるプロセスの両方を同時に説明するものなのだ。」(P.266)。
メイソンはこの“説明”に力をこめている。筋だけ示せばこうなる。キーワードは生産性である。生産性を上げるには労働効率をよくするか、機械を改良するかのどちらかである。前者は教育とか研修であり、成果が見えるまでに時間がかかる。そこで一般的には後者が追求される。そうすると投入される総資本のうちの機械が占める比率が上昇する(資本の有機的構成の高度化)。
「これは重要なポイントだ。生産性を向上させるには、雇用された人の生きた労働に対する「機械」の価値の割合が高くなる。」(P.271)。
個別資本では、こうした生産性の上昇は一時的に利潤を増やすが、資本社会全体としては利潤が減る。これが「利潤率の傾向的低下」法則である。
メイソンは労働価値説を支持し「労働価値説を用いればすべて説明がつく。・・・労働がまったく入らなくても、生産物と新しい過程が生み出されるときにどんなことが起きているかということを説明するのにも使える。」(P.272)と主張する。
労働価値説に対抗する効用学説は、それがそもそも商品の希少性を前提にしているから情報化時代には使い物にならない。「制限なく増加できる生産物などあるはずがない。社会的富を構成するあらゆるものは・・・限られた量でしか存在しない」というワルラスの言葉はもはや通用しないのである。あるテレビドラマの海賊版は放送から24時間以内に150万本もダウンロードされた。メイソンの示す例だ。
「価値ゼロの商品や共同使用の経済空間、非市場の組織、非所有の製品の世界を限界効用理論では理解できない。」(P.279)
再び「要綱」
メイソンは「要綱」を詳しく読み直していくつかの発見をしている。そのひとつ、マルクスは機械がいつまでも使える、つまり寿命が来ないなら、という前提で未来を考えていた。つまり情報化時代にはじめて現実になったことを1858年に亡命先のロンドンのガス灯の下で書いていた。
「価値の一部が社会的知識と公共科学によって無料で投入されている機械は、労働価値説にとって異質的な概念ではない。これらは、労働価値説の中心に据えられている。
しかし。マルクスは、もし、これらが多数存在したら、労働価値説に基づくシステムを破壊させることになる、と考えた。「粉々に破壊する」と「機械についての断章」の中で述べている。」(P.284)
小括
本稿ではP.メイソンの労働価値説擁護に焦点を当てた。彼の主張は広い範囲に及んでいるが、本書の最後には未来社会の可能性とそのおおまかな姿を示すことなる。
「本書の目的は、将来の枠組みを設計すること」(P.21、プロローグ)。
それは最終章の第10章で「プロジェクト・ゼロ」という表題のもとに展開されている。なぜそう呼ぶかといえば、CO2ゼロ、限界費用ゼロ、労働時間ゼロ、を目指すからだ。経済学の未来を設計するための科学につくりかえ、しかも実行段階では「大きな話」を避け、小規模でテストしていくことを提案している。そのためには次の5つの原則を掲げる。
- 人間の意志力には限界がある。
- 生態学的持続可能性
- 経済の移行だけでなく、人間の移行でもなければならない
- あらゆる方向から問題に取り組む。変化の担い手は国家や企業だけでなく、個人や普通の集団もそうである
私(評者)は『The NEXT』で中間領域の様々な組織に注目しているが、上記の主張と共有部分がある。メイソンが信用組合や協同組合などに期待を抱いているのはリフキンからの継承であるが、私も同意する。
- 情報力を最大限に生かす。つまりIoTの利用だ。それは知識を社会化することである。
そして、移行に際してしなければならないことの優先順位が示される。
- 世界の気温上昇を抑制する。
- 金融システムの国有化。金融が資本主義をこれ以上に刺激しないように
- 情報技術の提供で多数の人々に高い水準の物質的繁栄をもたらす
- 労働時間の削減。最終的には仕事は自由意志による。国家の管理目標は資本と労働でなくエネルギーと資源になる。
ゼロ・プロジェクトに国によって違いがあることを、メイソンは承知している。だからインターネットで国際的につながった様々な研究所の必要性を強調する。そこがシミュレーションをやってみることを提案している。それはアカデミズムの世界の現代版のインターナショナルである。
解説
完成した商品の価値を100とする。この生産には様々な要素が投入されている。
労働力40、通常の原材料40、機械などの固定資本の移転分10、そして情報という特殊な原材料10。剰余価値と資本家・経営者の価値形成労働は簡単化のため無視する。
情報を原材料、つまり不変資本、過去の労働とみなすことにはメイソンも同意している。
「ソフトウェアを機械として考えることができる。・・・情報(3D設計、プログラム、モニタリング報告書)も過去の労働として考えるのだ。」(P.287)。
情報の価値は、初期費用(プログラマー、SEの人件費etc.)とそれを使用するのに必要な費用(エナルギー代、通信費 etc. つまり再生・移転コスト)から構成される。初期費用は生産個数が増大するに従ってゼロに近づいていく。薬剤のあるものは大きな発コストがかかる。
しかし、その薬が普及し大量生産されるとともに1剤あたりのコストは下がる。新薬の発売から数年たつと公定の薬価が下がるのは合理的なのだ。強調しておくべきことは、情報の価値がたとえゼロになっても商品価格はゼロにはならないということだ。
メイソンやリフキンの独自性はこの先にある。情報がゼロになったら商品の価値は私達の例では100 ⇒ 90 になるが、これだけでは済まない。ここで物を言うのがIoT(モノのインターネット)だ。コンピュータ、IT技術はあらゆる面で展開する。それが著しいのは労働分野であろう。単純労働も複雑労働もコンピュータを搭載した機械に、あるいはロボットに置き換えられる。その分、労賃の比率は下がる。
つまり情報化が進めば、労賃をはじめとする生産要素の価値は下がり、やがて商品の価値は低下する。その過程の進行を止める、独占とか法規制がなければ必然的に進行する。
しかし価値の低いものを高く売るという独占はここでは考慮されていない。以上の事態を経営者の視点で眺めてみよう。
情報化が他の生産要素にも行き渡って商品価値が100 ⇒ 70になったとする。それは販売数量が増えない限り減収になる。トップライン、つまり会計帳簿の一行目は売上高である。それが減る。経営者にとって由々しき事態であるが、抵抗することもできる。減収でも利益を増やすことは可能だ。現実世界を見れば、減収増益という決算は日常的にある。経営努力については、ここでは触れない。
しかし理論でつめていくと超えられない壁に当たる。利益≒利潤の源泉は労働力にある。剰余価値はそこからしか生まれない。固定資本は価値を商品に移転するだけで増えない。つまり不変資本なのである。ところが、示したモデルケースでも労働部分が減っている。搾取率を倍にすれば?しかし労働者は人間であり、そのように扱うことには限界がある。
要するに、情報化だけでなくあらゆる装置化は利潤 ⇒ 利潤率の低下を招く。これが、リフキンも、特にメイソンが強調する“利潤率の傾向的低下”である。もちろん、これに抵抗することもできる。利潤率の高さを見込める新産業を創出すること、そのために新しい需要を発見することだ。資本主義は危機に陥ったときいつもこれを(つまりイノベーションと新市場の開拓を)やって自らを救ってきた。
過去と同じように切り抜ければいい。でも、それがやりにくくなっている。世界の分割はとっくに終わっており新市場は地理的に存在しない。先進国でも高齢化が進み、かつ人口が減っているから国内市場も拡大しない。内外の市場は縮小している。加えてイノベーションの頻度はかなり落ちている。勢いがあるのは情報化分野だけである。でも、それが資本主義の存続に問題を突きつける。
私見を加えれば、経営者の革新性も低下している。起業家を輩出する気運も日本では弱々しい。働く労働者の現場革新力も低下し、マイカンパニーという意識は過去のものである。だから日本では利潤率の回復は一層、難しい。
リフキンもメイソンも次の社会の構想を描こうと急いでいるから、論理が飛んでいてその分、わかりにくいが、方向、主張しようとしていることは理解できるし共感する。
ただ以下の論点は述べておきたい。
資本主義は危機になると、自らの力でそれを乗り越えてきた。回復力、生命力があり、その源泉は、崩壊の論理と同じように内部にある。この回復力は、かつてのマルクス主義者達が、社会主義の論客たちが見逃したものである。1930年代の不況、1970年代の危機、そして2008年の金融危機も乗り越えて、株価だけとはいえ史上最高値である。
大企業の収益を示す一株当り利益(EPS)も最高水準である。これらはすべて情報化の進展の下で生じている。だから現実を冷静に眺めると、資本主義が内的に崩壊するということになっていない。情報化は二人が主張するような内的な崩壊ベクトルではない。
やはり資本主義の崩壊は、W.シュトレークやD.ハーヴェイの指摘する諸々の様相にあるのではないか※2)。確かに情報化はそれらを進める一要因ではあるのだが。
※2)シュトレークは5つの症状をあげている。
- 経済停滞
- オリガーキー的分配
- 公共領域の収奪
- 腐敗
- グローバルな秩序崩壊
(W.シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』、P.93、2017年、村澤真保呂/信友建志訳、河出書房新社。原著はHow Will Capitalism End?: Essays on a Failing System、2016年、Verso)
【関連記事】
・【書評】 佐藤典司 『資本主義から価値主義へ』:情報化と価値論①
・【書評】『限界費用ゼロ社会』:リフキンの描くThe NEXT(情報化と価値論②)