『日本の名門高校 – あの伝統校から注目の新勢力まで -』(ワニブックス)という新刊を出した。よく似たテーマの本は3冊目で、これまでも多くの方に読んでいただいている。この本で項目として取り上げているのは、100名門高校だが、日本のさまざまな高校を体系的に取り上げている。
もちろん、自分の高校の自慢話をしたいとか、受験の参考にもなるが、それと同時に、ビジネスやお付き合いのときの話のタネにも役立つ。また、戦前から最近までの変化を説明しているので、たとえば、家族の中でのコミュニケーションをよくするのにも役立つと思う。内容豊富でコスパもいい本ということでおすすめする。
ここで挙げている表は、東大・京大の合格者の1950年代からの推移である。戦後の教育史がここに集約されている。
とくに目立つのは、1950年代には、東大トップは旧東京一中の日比谷高校、京大トップは旧京都一中の洛北高校で、それに東京、京都の公立高校が続いていたことだ。
ここでは、洛北高校を題材に歴史を振り返ってみよう。ちなみに、洛北高校は池田信夫先生の母校である。

京都府立洛北高等学校・附属中学校 Wikipediaより
湯川秀樹博士らノーベル賞受賞、第一号・第二号の母校
京都では、明治2年(1869)、64の小学校が市民主導で開校した。いわゆる「番組小学校」である。「民間に学校を設けて人民を教育せんとするは余輩昔年の宿志なりしに、いま京都にいたりてはじめて其実際をみるを得たるは、其悦あたかも故郷に帰りて知己、朋友に逢ふがごとし」と福沢諭吉を感激させた。
京都御苑内の学習院を淵源とし、明治3年(1870)に開校して京都府中学校となり、のちに洛北高校となった。京都府中学校は、明治9年(1876)に仮中学と改称、明治12年(1879)に京都府中学となった。そして、明治19年(1886)の「一県一尋常中学校令」(第一次中学校令。一府県一校設置の原則)を受けて、同20年には京都府尋常中学校となった。
この頃、大阪の第三高等中学が京都に移転することになったが、京都府では予算不足を生じ、京都府中学の経営を真宗大谷派(東本願寺)に委託することとなった。この大谷派による経営は明治26年(1893)まで続いた。そして、京都内に他の府立中学が設立されたことを反映して、明治32年(1899)京都府第一中学校と名称を変え、のちに京都府立第一中学校、大正7年(1918)に京都府立京都第一中学校となった。
昭和4年(1929)、現在の北大路通を走る市電が開通したのに伴い、校舎は下鴨に移った。戦後は、学校統合で現在の鴨沂高校内に同居したり、いったん廃校になったりしたが、昭和25年(1950)、現在地に京都府立洛北高等学校として開校された。
進学校として知られてきた洛北高校だったが、総合選抜制度の下で、次第にその性格は失われていった。昭和40年(1965)の京都大学合格者数を見ると、京都市立紫野高校、府立鴨沂高校などとほぼ同数で、すでに特別の存在ではなくなっていたが、その後、さらに低下した。また、合格者の中での現役比率が極端に低下していった。
しかし、平成16年(2004)に中高一貫クラスが設けられ、その卒業生が卒業したあたりから京都大学合格者もそれなりに回復し、2025年度入試での京都大学合格者数は16名となった。サッカー部は昭和42年(1967)に全国優勝。全国高等学校クイズ選手権で優勝したこともある。
卒業生には、湯川秀樹、朝永振一郎(共にノーベル物理学賞受賞者)、今西錦司(文化人類学者)、梅棹忠夫(民族学者)、桑原武夫(フランス文学者)、会田雄次(歴史学者)、高坂正堯(国際政治学者)、奥田東(京都大学総長)、池田信夫(経済評論家)がいる。
【目次】
はじめに 伝統の名門校から躍進する注目校まで
第1章 東京・神奈川の名門高校
第2章 関西の名門高校
第3章 中部の名門高校
第4章 東日本の名門高校
第5章 西日本の名門高校